誰かの話に対して、
「そうなんだぁ、私なんかね、この前こんなことがあったんだけど…」
と自分の体験を上書きするように話す人、いませんか?
人それぞれなので、そういう人が悪いとか言うつもりはないのです。ただ、切実な悩みや本気の愚痴に対してそれを言ってくるような人には、あまりそう言うことを打ち明けたくはなくなってしまいますね。
悲しみは、比較するものではない。
あくまで例ですが。
飼っていた亀がしんでしまったAさん。
飼っていた犬がしんでしまったBさん。
どちらが悲しい思いをしたでしょうか。
これだけ見るとなんとなく、犬を失ったBさんの方が悲しい思いをしたような気がします。
しかし。実際はわからないものです。
物心がついた時から大事に育ててきた亀かもしれません。
対してBさんは、犬の世話は家族任せでそんなに可愛がっていなかったかもしれません。
物事には背景があり、それによって見え方、感じ方はいくらでも変わります。
大事なものの価値
その人の悲しみは、その人だけのもの。
これは大事なことだと思います。
社会のルールは少し違う
もちろん、社会一般のイメージはあるので。そこは承知しなければいけない部分もあります。
仮に肉親の葬儀に参列せず、同時に失った亀の弔いをしていた、なんて事があったら周囲の人は変に思うかもしれません。 その人を叱る人もいるかもしれません。
少し別の話になってしまいますが、価値観や多様性ばかり主張してしまうと社会の流れに反する場合があります。
価値観の違いに、理解を求めてはいけない
これは、特に個人的な考えに基づきます。
たとえ好きなことであっても、社会の価値観はそれを理解してくれない場合があります。
例えば。ある特定の虫が好きな人がいます。誰もが知り、世間一般には害虫とされている虫です。 その人はその虫が好きで、部屋で何百匹と飼育していました。
食事中なども構わず飼っている虫の様子を動画で見たり、職場で同僚に見せびらかしたりしました。
これはかなり極端な例ですが。こんなことをされたら多くの人が不快に思うことは明白です。
そんな時に、私はこれが好きなんです。可愛いでしょう。だから皆さん理解してください。皆さんも好きになってくださいと同意を求めても、はいそうですかと理解はされないと思います。
事柄にもよりますがこの場合は恐らく無理です。
物事には社会一般のイメージがあり、私たちはその社会の中で暮らしています。
趣味や価値観、考え方や感性も含めて。
基本的に私は全てその人の自由でいいと思っています。
しかし同時に、事柄によっては社会のルールも無視してはいけないと思いますし、人の感性に口を出すのもナンセンスかなと思います。
好きなのが自由なら、嫌うこともまたその人の自由。
だと思います。
悲しみの話
本筋に戻ります。ここまでの流れを踏まえて、悲しみということに対してです。
感性や感じ方は人それぞれなんです。百人いたら百通りの感じ方があると思います。
中には誰かを失った時、悲しいではなく嬉しいと感じる人もいるでしょう。 それをどう感じるかは、その人次第です。
いま、ここ。という考え方
あまり気持ちのいいお話ではなかったかもしれません。
何が言いたいのかをまとめると。
あの人の方が自分より辛い経験をしている。だから自分の悩みは小さい。まだまだ頑張れる。なんて思わなくてもいいんじゃないかなと思うんです。自分が悲しいならそれでいいと思うんです。
モチベーションになったりもするので、それで頑張れる人はそれでもいいとは思いますが。
でも、本当に追い詰められている時は危険かなと思います。
いま、自分が直面している事実に関して、自分はどう捉えているのか。どれだけ辛いのか、悲しいのか。
一般的な価値観と比較してまだ自分は頑張れる、頑張らなきゃならないと無理をして、心の病を患ってしまう人を私は見てきました。 心が限界に近づくほど、それを認識する能力が落ちてしまうんです。だからこそ、まだ大丈夫と、油断してしまうんです。
いま、ここ。
私が学んだカウンセラーの世界ではそう言われていました。
いま、何を思うのか。
自分は、何を思うのか。
それが一番大事なんだよ。
他人は一切関係ないんだよ。と
これを知ることが、カウンセリングの一つの目的でもあります。
最後に
長々とすいませんでした。
最後に。このブログに書いてあることもまた、あくまで私という一個人の価値観、考え方でしかありません。色々引用はしていますが。
読んで何を感じるかは、皆さん次第です。
何かの足しになって頂いていればと願っています。
なにがし。