ここまできました。昨日も書きましたが。
皆さんのおかげです。
ありがとうございます。感謝です。
どこまで続けるかは分かりませんが、
やっぱりブログを始めて良かったなと思います。
自己表現の場であり。
サークル活動のようであったり。
愚痴を吐き出す場所であったり。
学びの場であったり。
驚いたり、共感したり、考えさせられたり。
皆さんのブログを読ませていただくことも含めて。
さまざまな体験をさせていただいています。
3日間更新が無かったら私はこの世からいなくなったと思ってもらってもいいです。
決してネガティブな意味ではなく、それだけこのブログに救われ、皆さんに救われながら今を生きていられるということです。
暇な時でいいです。
また遊びに来てください。
死生観を語る。
100記事目にふさわしいテーマって何かな。と。
一週間ぐらい考えたんですが。結論は出ませんでした。
とりあえず頭の文だけ書いていて、
あぁこれ書きたいなと、自然に湧いて来ました。
テーマは死生観。
あくまで私感ですが。
もったいない気質がゆえの死生観
私は、もったいない気質です。
ものが中々捨てられず。
貰えるものはなんでも貰います。定食屋で大盛り無料とあれば、大して食べられないのに頑張って大盛りを食べます。
それぐらい、もったいないと感じる感性が強いんです。
貧乏性とも言えます。我が家は、貧しかったので。
だからかもしれません。
私の死生観も、これに則っています。
生まれた、自我を持った。私という人格がある。
これが、私が思う人生で最大級の貰い物です。
なんせただです。
親は出産費用とか、育成費用がかかったでしょうが。
私は、一銭も払っていません。
こんな貰い物、他にはありません。
だから生きることは基本諦めないと思います。
いくら貰い物といえど。捨てるのはもったいないんです。
ただでごはん大盛りにしてもらって。
それを残すようなものです。
ドリンクバーが無料なのに水を頼むような。
健康志向なら仕方ないですけど。
だからこそ堪能する。人生を。
「死」という扉の向こうに、持っていけるものはない。 私はそう思っています。
ディズニーランドも、出口のバーをガシャンとくぐったら終わりです。 だからそれまで、遊び尽くしたいんです。
知ってほしい「死」の向こう。
病んでる人と話していて一番難しいのが、
死にたい、という言葉でした。
メンタル界隈では希死念慮と言われます。
いわゆる、死にたいという願望ですね。
ケースバイケースですが、 こういう人は、生きたい願望もまた強かったりします。
希死念慮にも理由はあるはずです。
〇〇がうまくいかない。
〇〇が嫌だ。
こんなことがあった。あんなことがあった。
だから死にたい。
悩むが故に、死という逃げ道を模索します。
私も、そんな時期がありました。
というか、今も正直たまにあります。
でもでも。悩むということは、抵抗しているということでもあるんです。
本当に諦めた人は他人にそういうことは言わず、さっと自らの命を絶ってしまうので。
だから、私はすべからく。
そういう人に生きてほしいなぁと思うんです。
勝手ですけど、私は仏教徒ではありませんし、キリスト教徒でもありません。クリスマスは祝いますが無宗教です。
だから、輪廻転成も信じていません。
神様も別に、いないと思っています。
死んで、火葬されたら終わりだと思っています。
記憶も思い出も、生きていたことすら全て忘れると。
眠る時と一緒です。
眠ったら、朝まで意識はありません。
それと一緒で、永遠に朝が来ないだけ。
だから、だからです。
今がつらくても。どれだけ苦しくても。
「死」の向こうには、何もない。
霊魂もきっとありません。多分。
死の向こうに何もないということは。
どれだけ苦しもうが、つらかろうが、楽しかろうが。
一緒だということです。
苦しんだ期間も、楽しんだ期間も。
死んだらご破算。ぜーんぶ消滅。
だったら、貰い物だから。せっかくだし。
生きてみようよってことです。
明日はいいことがあるかもしれない。
明日は、何かが変わるかもしれない。
何も変わらないかもしれないけど、それは生きて明日を迎えなければ分からない。
今日も、明日でも、十年後でも。
全く変わりはないんです。
行き着く先は無。虚無です。
と、私は思います。
死んだことはないので本当のところは分かりませんけど。
おわりに
私の考えはこんな感じです。
他の誰でもない自分の人生。
何かを成してからでも絶対遅くはない。
苦しいからこそ出来ること、見えるものがあるんです。
私もこのブログを通じて。
誰かの力になれたらいいなぁと心の底から思います。
人を救うのは結局人でしかない。
あるがままに。 歩いていっていいと思います。
人らしく。最期まで。
なにがし。