病んでる系カウンセラーのブログ

カウンセラー(アマチュア)視点で書くゆるゆる日記

気遣い屋さんは生きるハードルが高い。

人を気遣える、というのは大人の嗜み。 しかしこれが、時として苦しい場合があります。

気遣いをしすぎると生きる上でハードルが上がる。

そう感じたことはありませんか?

なぜハードルが上がるのか。
何が自分を苦しめるのか。

今日はそんなお話です。

気遣いは、優しさと心の距離

まず、気遣いとはなんなのでしょう。

私は。
優しさと心の距離だと思います。

単純に、相手のことを思って行動するのは素敵なことです。

親しき仲にも礼儀あり。
最低限のマナーはどんな関係性にもあってしかるべき。
私は、そう考えます。

しかし。
一種の仲の良い間柄であれば。
最低限のマナーとはいえ、かなりぎりぎりまで落とし込む事はできるとも思います。

互いの気持ちが高いレベルで共有しあえるからこそなし得る、理解と行動。
こういう関係性は別に、理想論でもなんでもありません。

お互い気を遣わなくて良い、と言われる関係性は現実に存在していると思います。

だからその上で考えると。
最低限のマナーだ気遣いだと言う言葉が飛び交ううちは。

その関係性には一種の、距離があるのではないかなと私は考えます。

もちろん、お互いが気を遣わないという関係性が至高だとも思えませんが、
ある角度から見た時に、気遣いは間違いなく。

良い意味でも悪い意味でも。 心の距離と言えるのではないでしょうか。

人は慣れ、そして甘える

気遣いを必要とする関係性において。
お互いの心がある地点から同等の距離に離れているかと言われると。
それは違うと思います。

基本的に。
他人は自分を映す鏡と言われ。
どちらかが近づいた分、心の距離も近づいていきます。

最初はお互い敬語で話していても、どちらかが敬語をやめればいつしかお互いにそうするように。

距離が近づいただけ。心の距離は同じになりやすくなります。

しかし。
気遣いは、その距離が縮むのを止めます。

そうすると、相手もそこで止まればそれまでですが、
相手がそれより近づこうものならば、距離の差が生まれます。

人は慣れ、そして甘えるもので。

そうなると相手の気遣いをアテにするようにもなります。
どういうことかというと。

相手を気遣うが故に、強い言葉を使わない人がいたとして。
その気遣いが故に、多少の失礼も許してくれる存在だと認識されてしまう。

そんな話がよく挙げられます。

分かりやすく厳しい表現を使うと、つけあがるのです。

激しい口調を使わないのが当たり前。
怒らないのが当たり前。
自分を気遣ってくれるのが当たり前。

そういう関係になりやすくなります。

どちらかが悪者というわけでもなく。

期待値が上がる=ハードルも上がる

そうなってしまうと。

冒頭で書いたような状態に陥りやすくなります。

ハードルが上がる。苦しい。

人間関係において起こる様々な事件も。
常に相手を気遣い続けなくてはならないからです。

昭和のヤンキーが雨に濡れた子犬に餌をあげるととてつもなく優しい人に見られるみたいな話がありますよね。

普段から周りに気を遣って生きていると、雨に濡れた子犬に餌をあげるくらいでは美談にもなりません。
そこから連れ帰り介抱して、動物病院に連れて行って予防接種をし、老犬になるまで面倒をみて初めて。
ヤンキーと同じくらいに見られるかなと言うところです。

だから。

良い人、気遣い屋っていうのは、ある意味生きるハードルが高い。

そう私は思います。

おわりに

周りを気遣って生きるというのは、ハードルが高いんですよ。苦しいものなんですよ。

そういう話でした。

だからと言って。
じゃあ明日からヤンキーになる!という人は恐らく多くないと思います。

こう言うことに心を痛めるぐらい悩むならば、結局はそういう生き方をしてしまうもので。

簡単に変えることは難しいと思います。
我慢できないほど苦しいならば自分を変える努力をしていくか、折り合いをつけるか。
道は二つに一つです。

一つ言えるのは。 こういうものに悩むからこそ見える世界は必ずあります。 苦しくても、つらくても。
ネガティブ一辺倒の話では絶対にないと言うことです。

ドラゴンクエストというゲームでは。
遊び人という最弱の職業でレベルを上げることで、のちに最強の魔法が使える賢者になれるというものがありましたね。

世の中そう上手くはできていないかもしれませんが。

少なくとも、可能性はゼロではない。

そう、思います。

なにがし。