病んでる系カウンセラーのブログ

カウンセラー(アマチュア)視点で書くゆるゆる日記

屈辱的同調は成長の糧となる。

屈辱的同調という言葉があります。

同調圧力に屈し、自分の本心を出すに出せず。
屈辱的だと感じながらも場の空気に同調してしまう。

読んで字のごとく、そんなものを指す言葉です。

今日はそんな屈辱的同調について。
書いていこうかなと思います。

屈辱的同調は、当たり前にあって。そして苦しい。
解消するには勇気がいるし、そのままでも結局苦しい。
しかし大いなる成長の糧となる。

そんなお話を。

屈辱的同調は、突然やってくる

新しい会社。新しい部署。引っ越し。新生活。

人は、その場に留まることは難しく。
何であれ、新天地に赴くことがあります。

そんな時。
その場所には長い時間をかけて根付いた考え方やルールがどうしてもあったりします。

こういうものなんだ、と容認できるものから。
えっ?と疑問に感じるものまで。

そういうものに晒されるタイミングは不意にやってくるものだと思います。

長いことその場に居ても。
立場や状況が変わることで突然その扉が開く場合もあるかと思います。

屈辱的同調は、苦しい

郷に入っては郷に従え、という言葉もあるように。 ある程度の期間我慢して慣れてしまうことが出来ればまだ良いのかもしれません。

しかし。 ちょっとこれは…と思うものに同調せざるを得なくなった場合。

岐路に立たされてしまうわけです。

屈辱的同調の道か。
戦いの道か。

誰が悪いものでもない場合もあるので、本当にこれは。
ある意味、コミュニケーション能力などの人間力みたいなものが試されます。

時間は戻らないので。
そうなった時はそうなった時で、折り合いをつけるしかありません。

苦しいけれど、腹をくくるしかないと私は思います。

勇気を持って、主張する

時には。
勇気を持って立ち向かうことが必要です。

屈辱的だとしても、同調していれば波風は立たない。
私が我慢すればいいんだ。

そんな道も、あると思います。
否定はしません。
そういうタイミングもあるし、耐えるからこそ開ける道もあったりするもので。
必要以上に自己主張しようぜ!とは私は言いません。言えません。なんてったって病んでる系カウンセラーですし。

多少の無理筋だとしても耐え忍ぶことも美しいです。

その代わり。
限界だと感じた時には行動することをおすすめします。
その思いを爆発させてしまいましょう。

どうせ爆発するんなら。
思い切って主張しちゃいましょう。

そんなぐらいが丁度いいのかな、と思います。

上手くやれるに越したことはないのですが。

おわりに

私は、三十年ちょい生きてきて思います。

人間、極限にならないと変わらないんです。

いや。

極限になって初めて、変わるチャンスを得る。
そう言った方がいいかもしれません。

何もなくても変わることができる人はもう。
それは才能と素質があったんだと思います。

そういう人の努力を否定するつもりは微塵もありません。

でも、そう思わされることが沢山あります。

それぐらい。
人が成長するということ、変わるということは簡単ではないと感じます。

環境は、人を変える力を持つ大いなる存在です。
多くの人が苦しむ屈辱的同調も、環境です。

屈辱的同調を。
ただ悪いもの、自分を苦しめる元凶だと認識するのと。
自分が変わるきっかけになり得るものだと捉えるのでは、話がまるで変わってきます。

言うほど簡単ではないけれど。
きっといつか。
そういうものとの共存の仕方は見えてくるのかなと思います。

今こういうものを読んで。もし。
なるほど!自分もこうしよう!やってみよう!
と感じる人はきっと素質があります。
すぐにでも、始めてみてほしいなと思います。

そうじゃない人は、今はまだその時期ではないか、自分なりのちゃんとした考えがある人だと思います。

自分にとって大切なことは、人に言われて気づくものじゃない。

身をもって経験して、その上で自分なりの結論を見出すことが、本当の成長なんじゃないかなと私は思います。

なんて。

なにがし。