つらかったら。
時には逃げると言う選択をするのは、私は悪くないと思っています。
立ち向かう勇気は大事ではあるのですが、一度距離を置くと言う選択は決して絶対的な間違えではない。
今日はそんな話を。
人はいつでも逃げることができる
人はいつでも逃げることが出来ます。
体を物理的に拘束でもされていない限り。 少しのお金があれば、 バスに乗れるし、電車や新幹線にも乗れます。
でも、逃げると言う選択が出来ずに苦しみ続ける人はとても多くて。
それは他人や自分に心を縛られているから、と言う理由に他なりません。
それが何より厄介です。
多くの人は、他人の限界なんて気にしない
そして多くの人は、他人の限界なんて知りません。
潰れたらしょうがない。
あの人が弱かっただけ。
こうなる前に休めばよかったのに。
言わないとわからない。
ぶっちゃけ。
社会においてはある程度の無理難題ぐらいがちょうど良かったりもするもので。
もちろん。
そう言うところを見極めてこそ社会人や管理職だとは思うのですが、常軌を逸した行動をしていない限り一概に責めるのも難しかったりします。
乗り越えるなら強い心をもって乗り越えなきゃいけないし。
これ以上は無理だと思ったら自らそう言わなくてはならない。
言われるがままでは無く、自分はどうしたいのか。
それを表現しないままでは、納得のいく生き方は難しくなっていくんじゃないかなと私は思います。
自己表現の大切さ
目の前に現れた壁を。
乗り越えるのか、見て見ぬ振りをするか、そこから逃げるか。
この選択は、非常に難しいです。
全てを乗り越えるならそれに越したことは言うまでもないんですが。
神様は乗り越えられない試練も与えると思っている私は、そういうものから情けなくも逃げると言う経験もまた必要なのではないかなと思います。
いわゆる挫折や、失敗といった経験。
困難に立ち向かい、打ち勝つということは尊い。
けれど。
困難と対峙して再起不能に追い込まれるぐらいなら、逃げたっていいじゃないとも思います。
だから。
白旗を掲げるときは、掲げよう。
そう思うのです。
白旗を掲げたら、再起戦へ
スポーツの世界で、敗戦の次の試合を再起戦なんて言ったりしますが。
これはすごい大事だと思います。
一度白旗を掲げた以上、次は間違いなく挑戦者で。
人一倍踏ん張る必要があると思います。
根性だけで無く、何がダメだったか、どうしたら良いのか。
たくさんたくさん考えて立ち向かう。
味わった挫折を、当たり前になんてしないように。
これは間違いなく人が成長するための一つのプロセスで。
だから逃げること自体は絶対におかしいわけでは無いのだと私は胸を張って言います。
ここまでやって初めて全ての意味を成す、ということですが。
おわりに
逃げるは恥だが役に立つ。
こんなタイトルのドラマの再放送がありました。
まさしくその通りじゃないかなと私は思っています。
再起不能になるかどうかの瀬戸際でしか得られないものもあるけれど。
それだけが成長の糧では、決してない。
なんて。
なにがし。