ダイバーシティ。
いわゆる多様性という意味合いの言葉で。
若者の自由な発想を大人は受け入れるべき、みたいな感じで使われることが多いのかなと思います。
今日は、そんな話を少し考えてみました。
多様性の求められる現代
多様性を考えることは今の時代、個人的にすごく大切なことだと思っています。
ビジネスの世界でもなんでも。
個人の考えを否定せずに受け入れよう、的な話で。
情報溢れる今の社会、さらには昭和から平成の時代の子たちが台頭してきた現代。
昭和の時代から培ってきたものや伝統が正解では無くなって。
誰しもがアイデア溢れる勝負をしかけるようになりました。
温故知新が大事なのは未来永劫変わらない考えだと思いますが、
もはや古い物は温めるどころかぶっ壊してなんぼと言わんばかりの人もいるのでは無いでしょうか。
だからきっと今の時代、多様性は大事。
そしてその中に含まれる落とし穴的な部分も考えていきたいと思います。
私たちは多様性という言葉に囲まれて生きなくてはならない。 こう言う側面も知っておくと何かが見えてくるかもしれませんね。
多様性という言葉を使うにあたって
多様性を声高に叫ぶことも良いと思いますが。
本当の意味で多様性を考えるならば、それを声高に叫ぶことはNGになりかねません。
多様性を声高に叫ぶということは。
自分の主張を是(正しいもの)とし、相手に同意させることにつながるからです。
それはつまり、相手の持っている考えという多様性の否定につながります。
多様性を主張することは時として諸刃の剣にもなるんです。
何かの主張をした人に対して、反対意見を書いている人。
Twitterなんかで目にした人も多いかもしれませんね。
多様性がもたらす結末
多様性を主張することのゴールは、そんなに多くはありません。
相手か自分が納得して折れるか。納得はしてないけれどその場を収めるか。
もしくはバチバチに言い合って、あいまいな一つの結論を見出すか。それぞれ納得した形で結論に達するか。
思いっきりざっくり書くとこんなもんだと思います。
何れにせよ。
双方がお互いの多様性を認め合い、納得するケースの割合は多くはありません。
少なくとも多様性という言葉を自分の考えを押し通す為に使った場合は、そんなに良い結果にはならない。
そんなことは言えるのかなぁと思います。
あくまでも多様性を主張をするならば、相手の考え方も受け入れた上でという気概を持つこと。
それが大事なのかな、と思います。
例えば今。
私が書いた内容に対して、それを真正面から否定されたとして。
その上でなぜそうなのかを考える、と言うことです。
いやいや今こういう時代なんであなたは黙って下さい。
こんなことを言っては多様性という言葉の持つ本来の目的が果たされません。
自分の考えを蔑ろにされてしまうと、相手の考えも受け入れがたくなってしまうものですよね。
人と向き合うことは、簡単では無いからこそ。
多様性という言葉を逃げ道に、隠れ蓑にしてはならない。
それをすることで、多様性という言葉が持つ大きな力が発揮されない。
そう私は思います。
なんて。
なにがし。