ままならない。
他の人は、どうなのか分からないけれど。
人は人のままにそれぞれ考えて生きている。
だから、他人の主張を受け入れる心を持ちましょう。
そう考えていると、たくさんの主張がぶつかり合うことにものすごく戸惑うなぁ、と思うのです。
他人の主張は聞く。その上で話し合う。意見をぶつける。
そういうプロセスは当然、あって良いとは思うけれど。
全員が全員、それなりに他人を尊重し、かつ自分の意見を押し通す権利があると思っていると。
話し合って出る結論も中々にぶっ飛んだものになったりもして。
結果的に向かう方向が定まらなくなったり、あやふやになったりするものだと思うのです。
少なくとも、ある程度。
私はこうしたいんだというリーダーの意思だったり、それなりに絶対的な指針や柱のもとに議論をするべきことがあるんじゃないかなと思います。
みんながみんな、100%の自由な主張を持ち寄って話して何かを決めるというのは、かなり練り上げられた組織じゃ無いと効果的にはできない。
そんな風に思うのです。
例えば、あるコミュニティがあるとして。
このコミュニティをより良くするために話し合いを行います。
みなさん自由に意見を出してください。
ただし相手の意見は尊重してください。否定も喧嘩もNGです。
こんな場合。
自由に、否定も喧嘩もNG、という聞こえの良さげな言葉はあるものの。
良い議論になるかは、甚だ疑問を感じます。
より良いコミィニティの定義がそもそもあやふやで。
他者の目指すものと自分の目指すものの主張が食い違ったら?
ルールを守りながら、これらを踏まえた自由な議論なんて無理に等しいと思うのです。
結果的に、言いたいことも言えない、当たり障りのない議論になるか、ヒートアップしてルール無視の殴り合いになるか、どちらかじゃないかなと思います。
当たり障りのない議論で終われば、上から見ればみんな満足しているんだ、と言う解釈になり。
ルール無視の議論をしたならば、みんなもっと大人になりましょう、という他人事のようなまとめ方をされて終わりです。
それならば。
今年度このコミュニティを運用して出た利益が10万円です。
それを来年度は10%増加させる方法を話し合いたい。
みなさん意見を出してください。
こんな議論の方がよっぽどスマートじゃないかなと思います。
これは、私の属するコミュニティで実際に起きていることで。
何だか息苦しいなぁと思っている私の心の声でしか無いけれど。
みんなのいけんをそんちょうしましょう。
という大義名分を利用しているに過ぎないと思うのです。
大義名分に隠れて楽をする人がいて、得をする人がいて。
その他大勢は満足のまの字も得られず、各々の言いたいことを影で言い合う。
そんなことを観測しても、私には今は力がないから。
情けないことに、
この環境をぶっ壊す力のある地位を黙々と目指すか。
コミュニティから去るかの選択しかない。
だから。
こう。
歯を食いしばれ。
なんて思ったのです。今日は。
なにがし。