昨日。
流星群についての記事を書きました。
それを書きながら思ったのです。
人の営みは、大事かもしれない、と。
私は、いま人の営みをとても蔑ろにして生きているなぁと思いました。
例えば。
子どもの頃は誕生日を祝ってもらっていたり。
クリスマスを楽しんだり。
年末年始はコタツでゴロゴロして、元朝参りにいったり。
夏祭りを楽しんだり。
そんなことが当たり前だったと思います。
しかし。
大人になって。
誰かの誕生日を祝うことはあっても。祝ってもらうことはなくなりました。
クリスマスも、同じく。
夏祭りも、同じく。
たまに出かけることはあっても。
じゃあ心底楽しめるかと言っても楽しいと感じることは稀で。
あぁこんなことをしている間に英単語のひとつも覚えたいなぁとか本読みたいなぁとか。
そんなことばかり考える自分ってなにをもって生きてるんだと思いました。
あるのかないのか分かりもしない自分の未来のことばかり考えて、今楽しむべきことを疎かにする。
楽しく感じないのはそれはそれで、その時の自分の心の持ちようなのでなんともし難い部分ではあることは分かっています。
だからこそ。
私の根本的な心の持ちようがもしかしたら、おかしいのではないか。
そんな風に思うのです。
楽しむことが絶対的に正解では無いのかもしれないけれど。
そうやって生きることの先に得られるものって何なのか?という疑問が生まれたという表現が合っている気がします。
好きなことはやっぱり楽しいので。
昨日の流星群のこととか、その前に書いた彩雲のこととか。
目の前のことをまずは当たり前に楽しむ。
そんなことを最近少しずつ意識するようにはなってきました。
だからと言ってすぐに何かが変わるわけでも無いのだけれど。
面白いものは面白い、という感覚はものすごい大事だと思います。
これは学びや、その習得にも通ずるので絶対に無駄ではありません。
きっと。
先のことが不安だから。
安心できる居場所が私には無いから。
今基本的に私はそう思うのだと思います。
心の在り処。そして拠り所。
無いものはしょうがないので。
有り体に言えば、それなりに生きるしかない。
その中で、できることは最大限にやる。
それしかない。
もしも。
似たように感じる方がいたら。
こんな考えもあるんだな、と思ってもらえれば幸いです。
人との関わりとか、何かを楽しむということは。
それをやったからと言ってなんなの?という考えはあると思います。
自分のために時間を使う、それが当たり前でしょ、という考えを私は否定しません。
しかし。
時にその経験が何より勝るという状況もあるかもしれないよ、とだけ。
書いてみたいなぁ、なんて。
なにがし。