もの凄い偏見かもしれないけれど。
今日ははっきり書いてやろうと思いました。
真面目に生きるって、なんなのか。
チラシの裏に書きなぐるような、なんて事のない話です。
私は、お金って大事だなぁと思うのです。
そして、そんな大事なお金はその辺には落ちていません。
どこにあるかというと、お金が集まる価値のあるところにあるのだと思います。
故に、価値のないところにはお金は集まっていかない。
もちろん、お金が全てではないことは承知の上です。
お金に変えられないものはいくらでもあるけれど。
社会というものを撫でるように見た時に。
少なくとも、価値のないところにお金はなくて、それなりの価値のあるところにお金がある。
そこに関しては多分、間違っていないんじゃないかなと思います。
それぐらいのイメージで捉えています。
で。
ここから生き方の話をします。
人を気遣って生きてきた。
声を荒らげることなく生きてきた。
理不尽に耐えてきた。我慢した。
家族を守ってきた。
贅沢をしない。
身の程知らずな生き方を私はしていない。
病気の親族の面倒を見てきた。
社会の一員として、歯車になった。
なにした、かにした。
こういう生き方をするということは、私は尊いと思います。人はお金を使わないと腹は膨れませんが、こういう「気持ち」の面が生きる気力そのものになるからです。
ですが。
もちろん全てが全てではないけれど。
こういうところに、金は集まらない。
すごく小さなコミュニティの中で。
その何人かで構成される関係性の中で、下手したら一人対一人の関係性で。
その相手からもらう、感謝の気持ちのために、何かのために頑張る。
それは、無価値ではありません。
しかしそれはどれだけの苦労があろうと。
大変だね、きつくなったら言ってね?
みたいなものでしかなくて。
賢く強く生きなければ、困窮の極みのような状態になってからでないと手を差し伸べてはもらえない。
つまり、社会から見てこんな生き方に価値は無いと暗に言っているようなもので。
そんな風に思ってしまうような現実が確かに存在するのではないか、と私は思います。
他人の顔色を伺おうと、理不尽に耐えようと、贅沢をせずとも。
言われたことをこなしていても。
手元に入るお金はそうそう増えません。
中身があろうとなかろうとセンセーショナルでリアルな価値に、人は振り向く。
何年にも渡る地味な努力が一瞬で閃いたアイデアに圧倒的差をつけられて負ける。
少しの方向性の違いが、別次元の結果になる。
縁の下の力持ちはいつだって日の目を浴びない。
裕福な人を妬むわけではありません。
お金が来ない事を恨みたいわけでもありません。
世の中の流れなのだから何を言ってもしょうがないですし、お金や価値が欲しいならシンプルにやるべき事をやるしかないのです。
犯罪で得たお金でないのなら、今持っている人はそれなりの事を成した結果でしかないのだから。
なんていうのだろうか。
なんて書いたら良いのか分からないけれど。
この、気持ち。
上級国民なるワードを世に知らしめた御仁がいま、裁判でひたすら無罪主張をしているようですが。
それを見て真面目に生きるってなんなのかな、と考えたんです。
人はこうあるべき、という思想。
教わったことは色々あるけれど、よくよく思い返してみたら。
それだけやってりゃ幸せになるよ、とは言われなかったかもなと思いました。とんだ誤算。
結果的に。
私たちは、どう生きるかなんて自由です。
人に後ろ指を指される生き方も、してはいけないわけでもなし。
受動的な生き方は、未来はそこそこ、苦労は無限。
能動的な生き方は、未来は無限、苦労も無限だ。
世の中、真面目さや誠実さがどうとかではなくて。
受動的に生きたか、能動的に生きたかで結果が分かれると言えるのではないか。
なんて事を書きたいのです。
真面目に生きるなんて、他人を気遣って生きるなんて馬鹿らしいとはもちろん言わないけれど。
それをさせられているのと、自分から進んでやるのとでは全く話が違ってきます。
最後にもう一言。
私は何かを恨む気持ちは全くありません。
社会は、今日も正しくまわっている。
ある視点から見れば、そう思います。
ただ、その正しさを。
それぞれがどう捉えるか、という話です。
こんな中身の無いか細い論陣を張って。
何がどうなるわけでもないんです。
どうかしたいわけでもありません。
ただ、書きたかったのと。
この世のどこかに、何かを超越したような存在がもしいるのならば。あるならば。
いま、ものすごく過酷な現実と誠実に向き合っているあの人に。
その人の望む未来を少しでも与えてあげて欲しい。
私も、自分にできることはやっています。
神頼みはしないけれど、祈りの代わりにでもなれば良いなぁ。
なんてね。
なにがし。