努力は、岩肌に打ちつけられたはしごを登ることに似ていると私は思いした。
滑りやすくもろい岩肌ではなく、しっかりと足をかけて、踏み出すことができるはしご。
そのはしごをゆっくりでも登ることが大切なのではないでしょうか。
たとえば、努力や継続ができないと悩んでいた私は。
目の前にはしごがあることを知っていながら。
手をボロボロに、膝を擦りむきながら岩肌を登ろうとして。
痛くて我慢ができないと、酷くもない傷をみて、果てしない山の頂上を見上げ、
数歩登っては降りてを繰り返していたのではないかなと思います。
もちろん、膝は擦りむいて、手の皮もむけて。
体は強くなったかもしれないけれど、何ひとつ為すことなくここまで生きてきました。
今私は、ほんの少しだけれど、はしごの登り方を覚えた気がします。
一段が狭くて、頑張ってもほんの少ししか進めないけれど。
確実に、前に進むことができる。
私が今まで経験したことのない努力の感覚。
いまさらこんなことを知ったとしても、誰にも追いつけないかもしれない。
でも、何かが始まった。
そんな気がします。
終わりの日までただただ生き抜こうと誓った。
そんな。
雨の六月。
なんて。
なにがし。