病んでる系カウンセラーのブログ

カウンセラー(アマチュア)視点で書くゆるゆる日記

心の声を叫ぶ。

とは言え。

簡単なことではないので。

この場を借りてぶちまけてしまおうかと思います。

私は。
人の大切さに、順位はない。
そう思っていました。

いつも行くコンビニの店員も。
パートナーも。親兄弟も。飲み友達も。

みんなそれぞれ大切で。
別々の、独立したベクトルの存在だと。

そう思っていました。

でも。綺麗事だった。
存在としてはそうかもしれない。
しかし。
それぞれが生きているこの現実世界においては違う。

選ばなければならない。そのタイミングが来るのだ。

よくある意地悪な質問で。
親と恋人が同時に溺れていて、どちらかしか助けることが出来ない。その感覚。

アニメや漫画の主人公なら、両方助ける!
なーんてしたり顔で言うのだろう。
しかし、現実は違って。選ばなければいけない。
些細な話も含めればが、こう言うことは実は結構ある。

親の介護のために、仕事を辞めるサラリーマン。
恋人との人生を選び、親を孤独死させる子。
親のために、恋人との時間を減らす。
恋人のために、親との時間を減らす。
親のために、恋人を選ぶ。
恋人のために、親の手料理を捨てる。
親のためにお金を払う。
恋人のためにお金を払う。
親のために、二世帯住宅を建てる。
恋人のために、親を施設に入れる。

誰かのための選択は、
誰かを捨てることと同義だ。

人は、人だから。
時間という同じラインの上に、その人は必ず一人。
だから。
絶対にどちらかを選ばなければならない時はある。

そしてそれは時に。
溺れた一方を見捨てるが如く、心に突き刺さるのだ。
生き死にがかかっていないとしても。

どちらかを選ぶことは避けられない。
そしてどちらかを選ぶということは、
どちらかを選ばないという選択を同時にしていることになる。

そして。そんな事実は。
どちらかを選ばなければならない、という固定観念を生み、自分のための選択も忘れさせる。

もはや三つ巴の戦い。
不自由な二択には、隠された(一般的に選べない)第三の選択肢があるのだ。先の、主人公の選択肢のように。それを選べば、楽になれるはずの。

私は。何のために生まれ、生きるのか?なんて。
病んでる人のテンプレみたいな思考。
あ、そうだ病んでたわ。と考えると納得出来る。

これが、私の生きるステージなのかもしれない。
そうです。ここまでテンプレです。

ちょっと落ち着きました。
感情に任せて書くのは、良くない。
駄文も駄文で、申し訳ないと思います。

最後に。

人生は結果論。
そう教えてくれた人がいました。 その話を少し。

どんな言葉も。
どんな生き方も。
どんな選択も。
何でもそう。

言い方、捉え方一つで後からどうとでも言える。

人生をどう生きたかなんてどうでもいい。
自分がどう生きたと思うか、が大事。

幸せに生きたかどうかは、そこだけ。
答えは、自分の中にしかない。

誰かの、何かになることを祈って。

なにがし。