人は、変わります。
良くもなり、悪くもなる。
その瞬間を目の当たりにすることは、人の心に衝撃を生む。
そして、良くも悪くもその衝撃と、人は向き合っていかなくてはなりません。
今日は、そんなことを書こうかなと思います。
人は、なんて大袈裟っぽく書きますが。
言わんとすることは、もの凄い単純なことです。
人は変わりゆく、ということ
人には様々な変化があります。
ポジティブなことで言えば。
我が子の、入園、入学、卒業、就職。
スポーツや学問での入賞、功績が認められるということ。
大人であれば。
自らの転職、昇進、結婚、親になるということ。
新たなステージに行くことを、変化と言うのは大間違いではないはずです。
そして当然ながらネガティブな変化もあります。
病気、失業、失恋、事件や事故、死別。
青年期から老年期へ衰えていくこと。
日常の一幕、ほんの些細な一言も含めて。
人は何かを経験し、変わりゆくものなのだと言えます。
変化は、心に衝撃をもたらす
人の変化を目の当たりにすると、誰しもそれなりに衝撃を受けるものだと思います。
友人が我が子がスポーツや試験で良い結果を残せば、歓喜。
入園や卒業などの人生のイベントを迎えれば、感動。
逆に、親が病気でやつれた姿を見れば悲しみ、
知人が堕ちた姿を見れば憐れみ。などなど。
自分の変化もさることながら、他人の変化は想像以上に心動かされるものだと私は思います。
それが自分の大切な人、深い関係を持った人ならなおさらです。
他人の変化には慣れない
他人の変化には、慣れない。
そう私は思います。
なぜなら。
誰もが、この世でたった一人の存在だからです。
大切な我が子が卒業するとなれば、多くの親御さんは涙するでしょう。
それが二人目なら、二人目なりの。三人目なら、三人目なりの違った感情で心動かされることと思います。
それぞれ違った苦労をして、違った喜びがあったはずだからです。
一人目の子は勉強が苦手で、塾に通わせて送り迎えが...とか。
二人目の子は友達が中々出来なくて...とか。
三人目の子はやんちゃで先生に何回も呼び出されて...とか。
それぞれきっと、違うはずです。
だから単純に我が子が卒業するという出来事だとしても、きっとその思いは同じじゃない。
一人一人に合った感情が、湧き上がると思います。
これは人の変化というもの全てに言えることかなと思うんです。
だから、人が変わりゆくことに人は慣れない。
例え変わりゆく事実を経験で知ったとしても。
その個人との関係性が生んだ感情はそれぞれが独立した別の話。
嬉しいことなら、それでも良いでしょう。
いくらでも、何度でも新鮮な気持ちで、それを味わうのですから。
しかし。
悲しい変化にも、常に新鮮な気持ちで何度でも向き合わなくてはならない。
それこそが、「変わりゆく人や物と向き合うこと」という事象が持つ、とても大きな要素のひとつかなと。
そしてその何度も味わうということが、人生の大きな何たるかであると。
私はそんな風に思います。
おわりに
本当なら。
じゃあこういう気持ちとどう向き合えばいいの?なんてことを書けたらかっこいいのかもしれませんが。
私はそんなもの知りません。
どんな理屈をこねくりまわしても。
悲しいときは悲しいし、嬉しいときは嬉しい。
世の中、何が起こるかもわかりません。ぶっちゃけ、出たとこ勝負です。
ひとつだけ、言わせてもらうならば。
悲しいなら悲しいと感じる。
嬉しければ嬉しいと感じる。
それがとても大事だということなんじゃないかなと思います。
きっとそれが、生きていくということそのものと言っても良い。
散る桜 残る桜も 散る桜
良寛和尚という僧侶が詠んだ辞世の句だそうです。
今を大切に生きていきたいと思います。 なんて。
なにがし。