病んでる系カウンセラーのブログ

カウンセラー(アマチュア)視点で書くゆるゆる日記

信じる、ということ。

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今日は、人を信じると言うことはものすごく難しいよね、という話です。

単純なようで、ものすごく奥深いことだと私は思います。

先に結論を書いておきます。

リスク込みで人は人を信じざるを得ない。
どんな未来があるのかは誰にも分からないのだから。

信じるとか、裏切られるとか

何やらワイドショーで、結婚詐欺師みたいな人が騒がれているのを目にしました。

婚活サイトやらなんやらで、結婚を前提にお付き合いをして。

やっている事業で失敗したとかなんとか言って、散々お金を奪ってドロン。

みたいな。

昔から、口八丁でお金をせしめる輩はいくらでもいらっしゃるわけで。

人の心を弄ぶ、みたいな表現がしっくりきますね。

で。

なにやらネット界隈でも有名になっているらしく。 ワイドショーでは、騙される方も悪い、と被害者の方がネットで叩かれたと。
(テレビ的な演出の可能性もあります。あくまでも記事を書くきっかけ、というだけなので掘り下げはしません。悪しからず)

そう考える人もいるので、それはそれで否定はしません。

ただ、私は。
信じることと金銭の授受は別問題ではある、という前提の上で。

人を信じるって、どんなものだと捉えているのかな、と思いました。

人を信じるということ

被害者の方は、信じた結果、裏切られた。それだけです。

なぜネットで叩かれる必要性があったのかと思います。

たしかに恋は盲目、と言います。

詐欺師はそういう人に目をつけるので、脇が甘かったということは言えなくもない。

しかしです。

何かを信じるということにリスクはつきもののはずで。

被害者の方が被害にあっただけでなく、匿名で傷つけられるようなことは、まぁ。

なんだかなぁ、なんて思ってしまいました。

家に鍵をかけて出かけて、空き巣に入られるのとそんなに変わらないじゃないかなと。

空き巣に入られる可能性はいくらでもあって、それを防ぐ手段もいくらでもあります。

ただし、多くの人が一般的に頼るのは、鍵のはずです。

その鍵が破られたから管理が甘い、と非難するのはおかしな話ではないでしょうか。

盗まれた方も悪い、そう言いたくなる気持ちは理解するけれど。

とまぁ、ちょっと熱くなりましたがこれは本題ではないのでこの辺にしておきます。

人を信じた結果とは

人を信じるということ、について。

これは、難しい。   

何度も書きますが私は率直にそう感じます。

私も、過去に。
他人が言った言葉を信じ、何度も痛い目を見てきました。

そんな経験をしたことがある方は少なくないと思います。

傷つくたびに、思うのです。

「あぁ、もう他人なんて信じない」

しかし忘れた頃に、また。

「この人なら信じてもいいかな」

裏切られた経験を思い返すこともなくそんなことを考え、また信じて。

結果、同じ思いを繰り返すのです。

人を信じることにはリスクというものが確実にあって、そのリスクなしでは人を信じることはできません。

むしろ、リスクを感じることすらなく信じられるということが本来の意味であると言えるのかなと思います。

だからこそ、そこに詐欺師は目をつけるし、人を信じる、裏切られるうんぬんのドラマがあります。

リスクがどうとか言っているうちは、信じるということとはほんの少しだけ、違うのかなと。

だから、今回の詐欺の件に関しては、被害者の方はリスクも感じていたのかもしれないけれど。

持ち逃げされる最終的なラインを手放した、つまり人を信じたんです。

結果は残念なことにはなってしまいましたが、この方のやったことは信じるという一点においてはちゃんとしていた。

そんな風に言えるのではないでしょうか。

信じること以外の手段は多くない

例えば限られた関係性のみならず、信じなくてはならない場面は少なくないと私は思います。

身近なことで言えば、食品の品質だって私たちは信じることしかできません。

飲食店で提供された食べ物の食中毒で亡くなった事例が過去にありました。

もちろん、食品の安全性は様々な要因で守られてはいると思いますが。

極論、食べるまでは分からないと言えるはずです。

悪意ある手が加えられれば、それを知り得ることはできません。

道路を歩いているときだって、その横を走るドライバー全員が安全運転をしているとは言えません。

それだって極論ですが、信じることしかできないんです。

この食べ物は安全だろう。
いつも通りの道だから安全だろう。
この辺は事故も少ないから安全だろう。
電車だから安全だろう。
バスだから安全だろう。
家にいるから安全だろう。
入院しているから安全だろう。
学校や保育園にいるから安全だろう。
横断歩道だから、青信号だから安全だろう。

そういう「何かしら」を信じ、私たちは日々生きています。
しかしその「何かしら」の多くは、過去に死亡事例につながった要因を持つものです。

当たり前すぎてリスクがある、と思うことすらない物もあるかもしれません。

慰謝料は取れても、失った命は返ってきません。

しかし、そうだとしても。
私たちは何かしらのものを信じ、定かではないものにある程度頼らなくては生きていけない。

信じる、という一点のみの手段であるものは世の中にいくらでもある、ということを私たちは認識するべきではないかな、と思います。

人と人

ちょっと極論に走り過ぎたので話を戻しましょう。

人と人、それぞれがそれぞれを信じるということ。

そこにもリスクはつきまといます、と言う話でした。

リスクなしで人は人を信じることはできません。

そして、本当の意味で人を信じると言うことは、

ものすごく尊敬すべきことであると同時に、確実にリスクを伴うものである。

そんなことを書きたいと思いました。

人の心なんて、読めません。

腹の中も、読めません。

やるかやられるかも、同時に私たちは考えなくてはいけない。

こんなことを書きたくはないのですが。

何かを信じること。
そして、リスクも踏まえるということ。

両方とも、大事なのかな、なんて思います。

なにがし。