他人に敷かれたレールの上を歩くのはどうこう、
という言い回しがある。
今日はその辺について少し。
生まれた時から。
人は何らかの期待を背負わされると思う。
例えば、有名なところでは。
両親ともにスポーツ選手で、とか。
偉大な記録を残した名選手で、なんて場合。
物心もつく前から幼い頃からそのスポーツに打ち込む。
社長の子なら、会社を継ぐとか。
有名人の子なら、二世タレントとか。
そうでない場合もあるとは思うけれど、
そうなるだろうという周囲の期待を浴びる。
そしてそれが、「他人に敷かれたレール」となって目の前に浮かび上がる。
本人が望むのならそれでいいと思うけれど、そうでない場合。
そのレールから外れただけで、落胆という周囲の感情に触れざるを得ない。
それが無くとも、おそらくある程度の年齢になれば。
周囲は落胆するんだろうという想像で心を痛めなくてはならない。
自分の生きる道を自分で選んだだけなのに。
そしてそれは、多くの一般庶民も同じだ。
子が生まれ、
自分の老後の心配がなくなったと感じる親もいるだろう。
会社に就職すれば、
手頃な部下ができて嬉しいと感じる上司や先輩がいるだろう。
飲食店に入れば、
店員はおとなしく食事をして帰ってほしいと望むだろう。
男女の仲になれば、
恋人としての振る舞いや、それなりの態度を求められ、
夫婦になれば、
夫として、妻としての、そして親としての役割を全うしてほしいという思考に捉われる。
長いも短いも、大小も関係なく。
誰しも、この人はこうあってほしいという期待を持たれるタイミングがどうしてもある。
そしてそれを全うできなかった時。
周囲は勝手に落胆する。
求められる役割と、自分がどうしたいかの関係性は必ずしも一致しない。
自分がどうしたいかが社会的なルールを大きく逸脱していればそれはしょうがない。
しかし、そうでない個人的にはこれは許されるだろうという範囲にも、
他人からの期待はレールのように人生に覆いかぶさってくる。
そこから外れれば、文句を言われる。
日々のコミュニケーションによって多少の余裕は作れるかもしれないけれど。
そういうものに支配されるというのが一つの人生の捉え方として。
多分、そこまで大間違いではないと思う。
人生は、自由という不自由の中を行く。
しがらみも自分の意思も何もかも。
何を優先するのかも、誰に何を求めるのかもはっきり言って自由。悪いことでなければ。
その結果がどういうものであるのか?を実感して後悔して生きることもまた、人生だと思う。
きっと。私も含めて。
「他人が勝手に敷いたレール」に悩まされている人は少なくない。
それは良く言えば、期待、希望。
悪く言えば、障害。
何が答えか?は一概には言えないけれど。
自分が納得できるかできないかは大きな要素であることは間違いない。
敷かれたレールを納得して進むのか。
納得できる道を求めて自分の足で歩くのか。
どちらもきっと、少なくとも間違いではないと思う。
人生において最後の最後まで向き合うのは、
結局のところ
親兄弟を含めた他人では無い、自分自身なのだから。
なにがし。