メンタルやばいとか。
生きるのがつらいとか。
今の状況が苦しいとか抜け出せない、とか。
そういうものの解決法なんて、ぶっちゃけありません。
じゃあ、なんなの?どうすればいいの?というところを考えてみました。
私自身、少なからず自分に嘘をついて生きています。
そんな人間なりに、思ったことを。
苦しみに共通の解決法は、ない
散々書いてきた身ではありますが。
誰にでも当てはまるような絶対的な答えなんて無いと私は思います。
なぜなら。
率直に根本原因を解決しなければいつまでも苦しく、その解決方法は千差万別。
さらに答えが単純であっても行動そのものができなくて困っているのですから。
例えば、体調が悪いなら病院に行けばいいんです。
それは一つの絶対的な解決法と言えるでしょう。
しかし心の苦しみは違います。
例えば職場の人間関係。
偉い人や、ひどい場合は労基に訴えれば解決するかもしれませんが。
じゃあ困ったら即言えるかと言われれば、気軽にできることではありません。
家族間の人間関係なんてもっと悲惨です。
解決してくれる機関なんてほぼありません。
あまりにこじれた場合、物理的に距離を置くぐらいでしょうか。
何事も、解決する為のリスクをはらんだ筋道はきっとあります。
しかしその道を歩くかと言われれば、そこまででもない、気軽にできない。
だから我慢する。苦しむ。
苦しむことそのものに対しての特効薬はないんです。
苦しむ人自身が何らかのアクションを取らなければ、基本的には解決しません。
苦しみはシグナルだという捉え方
で。
そもそも苦しいって何?ということを考えました。
私はこう考えます。
怪我をした時、そこに痛みを感じるのと同じで。
自分の心がピンチなんだ、傷付いたんだということのシグナルこそが苦しみなのだと。
人間が持つ機能に無駄なものは無いと言われることがあります。
その考えから見ると、苦しみという心の動きにだって必ず意味はあるはずです。
だから。
なんとかしてくれよと、という心のシグナルとして捉えることが大事だと思います。
例えば、痛みに置き換えると分かりやすいかと思います。
切り傷を負ったら痛いので、絆創膏を貼りますよね。
打撲で内出血しても痛いので、湿布を貼ったり薬を塗ります。
どちらもひどい場合は病院に行くという選択をします。
痛みというシグナルに反応して、人は自分の意思で行動します。
それをしなければ傷口が化膿したり、もっとひどい状態になるというのを脳が知っていて。
痛みをそのままにしておくのは不快=それを意識的に解消させるという図式の元に。
痛みというシグナルは存在します。
強制しているわけではありません。 体が勝手に病院に行こうとはしませんよね。
あくまでもシグナルをそのまま放っておくのは不快だから、痛いから。
人はそれを取り除くために意識的に病院に行く、という行動で対処するんです。
苦しみも、同じです。
それを取り除くために何らかの行動をして下さいというシグナルなんです。
しかし。
物理的な傷や怪我と違って、心は目に見えません。
先に挙げたように具体的な解決策もありません。
なんでもかんでも対処するかといったら、人はそんなに意識的に対処しようとしません。
対処してくれ、というシグナルに対して何もしない。
これは。
深い傷跡をほったらかしにするのと一緒です。
いずれ化膿して、投薬や手術をしないと治らない状態になる。
その化膿した状態こそが。
例えば、我慢できなくなって人や物に当たったり。
脳内物質のコントロールの効かない精神疾患だったりするんです。
自分の中の苦しみを放っておくということは、こう言うことだと私は思います。
心の手当
じゃあどうしたらいいのでしょうか。
自分と向き合うことが一つの心の手当だと私は思います。
苦しいから、無意識に他人に助けを求めるということは。
私は、助けてもらうことそのものが目的じゃないと思っています。
他ならない自分の心が、自分自身に向かって。
もうダメだよ。人に助けを求めなきゃいけないくらいまであなたは苦しんでいるんだよと伝えようとしている。
そんな気持ちが限界に達し、耐えられなくなることで人は人に心から助けを求める。
そんな風に思います。
自分の心を内側に封じれば封じるほど。
見ないふりをすればするほど。
心は叫ぼうとするんです。
苦しみに気付いて、あなたは限界だよ、おかしくなってしまう、と。
そういう気持ちに対してアクションを取れたなら、まだ良いです。
何の対処もしない、行動できないならせめて。
自分の心と向き合いましょう。
目を瞑って。
ごめんな、つらいよな。と一言でも良いから語りかけましょう。
こんなことで問題は解決はしません。
しかし。
苦しみという心のシグナルは、ほんの少し落ち着いてくれるんじゃないかなと思います。
深い傷口に、応急手当ての包帯。
ひどい風邪の症状に、市販薬。
こういうものでも無いよりはましです。
そういうものでとりあえず、一時の気休めをしてから病院に向かうのと一緒です。
この手当てこそが立ち上がる気力を生むのではないかな、と私は思います。
おわりに
手当てって安心するものだと私は思います。
小学生の頃、校庭で走り回って怪我をした時に。
保健の先生に手当てをしてもらった安心感を覚えている人もいるんじゃないでしょうか。
やっていることは、ものすごい簡単なことかもしれない。
しかし、小さな行動であっても時に代え難い大きなものを心にもたらします。
そういうものも大事にしてみてはどうでしょう、と言う話でした。
なにがし。