人間には優しくそこに在る為には権利がいると私は思っています。
優しく在りたいならば、様々なものを持っていなくちゃいけない。
いくつか例を挙げてみます。
いつもニコニコしていて優しい。しかし無職。
無職の方。
いや、無職だから悪いわけではないんですが。
大概の人が、いやいや笑ってないで仕事探せよと思います。
ニコニコしてる場合じゃない。
いつもニコニコしていて優しい。しかしたまに人を殴る。
人を殴るのもいけません。
普段優しくても殴るなら話は別です。
笑顔すら怖く見えますね。
いつもニコニコしていて優しい。しかし仕事が遅い。
これも、微妙です。
職種にもよりますが、仕事のクオリティは大事です。
会社に迷惑をかけている時点で、周りからの目は素直に優しさを感じ取れません。
もちろん、そういう人がいて良かった、という場面も無きにしも非ずですが。
その人が、その人で在り続ける為の権利
優しく在る為の権利と書きましたが、それはまさしく。
最低限のことはやってなければいけないということです。
優しい人かどうかは他人が評価することであって、自分が優しいと思うからどうだというものではありません。
つまり、周りの人の見る目があって初めて成立します。
私は、このように人間という存在は一個で確立したものではない、なんて思ったりします。
もちろん。
人としてのパワーがものすごい人は、その個人の力をもってすれば強烈な存在であることは間違いないのですが。
例えば、職場が変わったら。
例えば、言葉も分からないアフリカにポンと捨てられたら。
例えば、規律の厳しい世界にポンと投げ入れられたら。
それまで持っていた個人としての存在感が揺らぐという人は、きっと少なくないと思います。
人はそれまで積み重ねた環境のもとに生きることが多いので。
その中で培った、アイデンティティ(自分はこういうものだ、という思考)があって。
それによって自分で居られるという部分は、おそらく少なからずあるはずです。
なので。
その人が、その人で在り続ける為の権利とは。
自分を取り囲む人間関係、環境。
それを含めて、一個の人間という存在である。
という感じのことを書いてみたかったんです。
だから。
自分という存在のなんたるかに迷った時は、どうしても自分を変えないといけないと思ったりするのですが。
少し立ち止まって、辺りを見回してみると。
何かが見えることもあるんじゃないかな、なんて思いました。
今日は、そんな日。
なんて。
なにがし。