世の中には、いろんな人がいます。
当たり前ですけどね。
私たちが日々、自分の頭の中で考えているようなアレコレを、
その差はあれど、他の人も何やかんやと考えているわけです。
箱の中身は、 箱の蓋を開けるまでは認識できないのと同様に、
私たちは他者の心の中を観測することはできないんです。
そう考えた時にですね。
私は思うのです。
書いてるものを読むって大事だよな、と。
よくですね。
次のような、国語のテストのありがちな問題、あるじゃないですか。
「この時の筆者の気持ちを答えよ」
みたいなやつです。
当時はそんなんわかるはずないだろう!と心の中で密かにツッコンでいたんですけど、
大人になって少しだけ、その意味がわかるようになったなって思うんです。
なぜなら。
書くという行為は、
意思疎通をする上で、
他の要素をそれなりに削ぎ落とした行為だからです。
例えばこのブログを書いている私が、
どんな気持ちか、
どんな表情で書いているか、
そういうものは伝わりません。
しかし、この記事に限定して書けば、
他者の心が見えないことについて、言及したいと思っている。
書くこと、読むことの意味について何かを伝えようとしている。
ということは伝わるかなと思います。
もちろん、書き方にはそれなりのテクニックがあるので多少の脚色はあります。
しかし「特定の何かを伝えたい」から書いていることはご理解いただけると思います。
これまでのブログ記事も同様ですね。
そこには、
隠せる部分はないわけです。
記事で嘘を書くこともできなくはないですが、
匿名でこんなところで嘘を書く必要性なんてほとんどないわけですよ。
つまり。
私で言えば、
このブログに書いていることの大半は、
私の内面を大いに反映したもの、そして私の思考の根っこに限りなく近い部分だということです。
だからですね。
誰かが書いた文章っていうのは、
私は面白いと思うんですよ。
よっぽど地肌が見えるというか。
もちろんそうでない部分もないとは言い切れませんし、
率直に書けば「どんなことでも書ける」けれど。
「書」に表れるなんたるかは、通常のコミュニケーションとは大きく違う側面があるってことです。
それが国語テストの問題の持つ意味、その一端を担うのではないかな、と今になって思います。
はい。
今日はそんなことを考えました。
書く、読むって大事なんだなと。
なんて。